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 桐匠たんす店

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箪笥は海外でも類例が無く、我が国独特の収納家具と云われています。
その桐箪笥が日本で最初に使われ始めた地方は、関西地方と言われています。また各地で使われ始めた時期は、室町時代とも江戸初期とも言われています。しかし更に古い時代の品物と思われる、類を同じくする桐製品が数多く現存するなど、全国各地に諸説・異説が多数あってその時期、地域とも、本当のところよくわからないのが実情のようです。それまでの人々の衣類収納と言えば、行李・長櫃(長持)・葛籠(つづら)などが日本全国津々浦々、どこでも使用されていました。 いつ頃より 江戸&武蔵国周辺で桐箪笥が製造、普及したのか、桐箪笥製造職人のあいだで、昔から代々語り伝えられてきた話の一端をお話したいと思います。

東照宮造営と桐箪笥〜今を遡ること四百有余年・三代将軍家光の御代 寛永〜壱拾参年(1636)年 東照大権現 家康公の霊廟が在る、日光東照宮寛永の大造替が始まりました。天下普請の始まりです。号令一下 北は・出羽・陸奥国〜南は大隅・薩摩より全国各雄藩内の名だたる名工が呼び寄せられたと言われます。主従・徒弟などを引き連れ、挙げて工事に参加したものでしょうか、造営工事は弐拾有余年に及び作業に携わった延べ人数は弐拾萬人とも弐拾伍萬人とも言われます。 草深い武蔵野〜 野辺・・・・・・・・・などと言う表現を度々耳にしますが、当時の相模・武蔵・下総周辺は四拾里〜伍拾里四方未開の雑木林がジャングルの如く広がっていたと、伝えられています。中国原産とも言われる桐の木が、武蔵野の地に多量に自生していた訳は、知る由も有りませんが、東照宮の造営の帰途、一部の職人たちが帰国せず、武蔵の国各地に逗留の場を得ー草庵を結び、豊富に自生している桐の木に目をつけ、日常生活用品(箪笥・長持ち桐箱・・・等)製造し近郷、近在の住民に供したのが始まりと代々語りつたえられています。

その後 当時まだ草深い新開の地 江戸が日本一の大都会に発展するに伴い、収納家具として桐箪笥の需要が飛躍的に伸びてゆきました。当時の桐箪笥は現在のそれに比べ、比較的小振りのもので(間口三尺位、丈四尺前後、一本立、引出三〜四杯位) また素材としての桐材は板目・柾目の部材を組み立て桐箪笥を造りますが、当時の桐箪笥は板目素材の箪笥が多かったと云われます。表面の仕上げ加工は保護の為でしょうか、表面に漆塗りを施した箪笥も多かったようです。桐箪笥が幅広く庶民の日常の生活に使われるようになり、需要拡大に伴い製造専門職人の他、近郊農家の農閑期の副業としても幅広く造られるようになりました。
生産地として、桐の木の産地で街道筋の武州〜 川越・桶川・上尾・与野・岩槻・鴻巣・杉戸・粕壁(春日部)・越谷・野田・・・・ 下総領 結城・古河・猿島郡周辺・・・・他に生産地が形造られて行きました。

江戸・東京〜職人が移り住み、数多くの桐箪笥が作られていたそうです。主な生産地は神田・浅草一帯・小伝馬町界隈・・・その後、下谷・根岸・向島・町屋・新宿周辺・・・・でも作られるようになりました。特に神田、浅草周辺には数多くの桐箪笥の製造業者がいたと云われています。そして周辺には製造に欠かせない、桐材屋、金具製造卸、糊製造、塗師職人、木挽き職、刃物鍛冶等・・・なども数多く集まりかなり賑わった産地だったと云われます。 平成の代になり都内の桐箪笥業者、職人とも減少を続けました。住宅地内での作業は、騒音、ホコリの飛散・敷地の確保等で難しくなったと言うことでしょうか、現在都内の桐箪笥業界に於いては、製造を行う業者は数社を残すのみと相成り、大半は国内・海外生産地より製品・部材を仕入れ、最終加工を施し、家具店・デパート等に供給する流通業(問屋)としての機能も併せもち、発展し現在に至っている次第です。

平成の現在 都内新宿区に 箪笥町、細工町の地名が残っています。そして今は無くなった旧地名で大工町、塗師町(千代田区)箪笥町(港区六本木周辺)などわずかに先人たちの活躍した往時の職人町の名残を偲ぶことができます。 
                                                  
                                                 老翁職人談

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